なにもかもが大きいアメリカとはいえ、スーパーマーケットの乳製品が並ぶ売り場で目にしたバターの大きさたるや、まさしくアメリカンサイズだった。
日本によくあるプラスチック容器や厚紙の箱に入れられたバターはグラム単位の内容量に納まっているはずで、こちらのそれはキログラムの大台に乗っかっているように見えて「大家族用かな」などと想像した。
それから数日が過ぎて、ランチをしようと社内のカフェテリアに向かうと、マークだったか、ビリーだったか名前は忘れてしまったけれど、隣の部署の同僚が入口のそばに置かれた冷蔵庫から取り出したのは記憶に新しいあのバターだった。
バターがカウンターに置かれると同時に「ゴトン」と響いたその音も結構な重量物であることを伝えてきた。それにしても、デカい。
タイミングよくパンが焼き上がり、その同僚はトースターからパンを摘み上げると皿にのせて、カウンターに向かった。
じろじろと見てはいけなくて、だけどどうしても気になって横目でバターを見ていると、手に取ったバターナイフでその塊を豪快に削りとるとパンに塗った、いや、盛った。
すごい ―― まさかこちらの目を意識して、いつもより多く盛ったのではあるまい。僕が「適量」とイメージするところのゆうに三倍はあった。
こちらがみみっちいのか、あちらが思い切りがよいのか ―― もしもこの時、僕がバターを塗っていたなら、彼も驚いたに違いない。
「それではバターの味がしないだろう」とか「それで腹が満たされるのか」などと。
あれだけの量のバターをパンに塗るのなら、消費は相当に早いだろう。
重厚感の漂うあのバターは、大家族用などではなかったのだ。